In Praise of Idleness

Bertrand Russell, 1932

私の世代は「怠けていると、サタンがいたずらするぞ」と、いつも何かしているようにしつけられた。私は良い子だったので、いわれたことは何でも信じた。この良心のおかげで、今までずっと働き続けられたほどだ。でも、今や考え方はすっかり変化した。その考えとは、「私たちは働きすぎて、仕事は良いものだと思いこんでいるから、この世に多くの害をもたらしている。現代の国々に言い残したいことは、今までいわれてきたこととは全然ちがう」。ナポリの旅人の話をする。日なたぼっこしている12人のホームレスがいた。その中でいちばんの怠け者に1リラを与えると旅人は言った。11人は思わず飛び上がったので、旅人はじっとしていた12人目に与えた。この旅人は正しいことをした。ぽかぽかした地中海ではなく、日光の少ない寒い地域では、何もせず怠けることは難しいので、怠けるには気の利いた広告がいる。また、教会の青年会長は、良き青年たちを何もしないよう導いて下されば、本書を書き残す甲斐がある。

怠惰を良いものとする議論を進める前に、個人的に気になる議論を片付ける。生活に困らないある人が、若者から、公務員や事務員のようなよくある職業を目指したいと聞くと、他の人たちの仕事を奪うので良くないと諭すという話だ。これが正しいなら、失業を防ぐには、みなが怠け者である必要がある。本当は、人は稼いだものを消費し、消費して他人に職を与えている。収入の中で消費している限り、人々の口から奪うごはんと同じ量のごはんを人々の口に与える。本当の悪人は、貯蓄する人だ。貯金を靴下にしまいこむだけなら、その貯金は仕事を生まない。もし貯金を投資するなら、話は変わってくるけれど。

貯金をうまく使うには、ひとつは国に貸すことである。政府の公債費は、戦争の清算と準備だと考えると、政府にお金を貸すことは、殺人者を雇う殺し屋と同じ立場になる。国債を買った国の武力を強めることになる。だから酒や賭け事にお金を使った方がましである。

ところが、貯金を企業に投資する場合は事情が違うと思うだろう。投資先の企業が役立つものを生産し成功するならそうだろう。しかし、ほとんどの企業はそううまくいかない。私たちを喜ばせるサービスの生産に集中するなら、社員の労働は結局、生産のための設備やシステムのために費やされる。だから破産する事業に投資するなら、自分だけでなく他人をも傷つける。もし友人と開くパーティにお金を使えば、友人たちはきっと喜んでくれるし、食材やお菓子や酒を扱う小売業者も喜ぶ。けれども、路面電車が必要ない場所に路面電車用のレールを敷くためにお金を使えば、その労働は誰も喜ばせない。なのに、その人が投資を失敗し貧乏になると、その不運や犠牲を同情されるが、自分のお金を博愛からばらまくと浪費と軽率を軽蔑される。

ここまでは前置きである。私が本当にいいたいことは、仕事は立派なものだとの思いこみがこの世に害悪をもたらしているということ、そして、幸福と繁栄をもたらすには組織的に仕事を減らしていくべきだということである。

さて、仕事とは何か。二種類ある。ひとつは、地球上で物の位置を変えること、もうひとつは、他の人たちにそうするよう命じることだ。前者は快くもなく報酬も多く受けられないが、後者は快く報酬も高く仕事の範囲をどこまでも拡げられる。命令を出すだけでなく、どんな命令を出すかコンサルティングする人たちもいる。政治では、異なる二つの政策が、異なる二つの組織から同時に出される。この仕事では政策に関する知識より、納得させる話し方や文章術、つまり広告の知識のほうが役立つ。

歴史的にみて、どんな労働者にも尊敬されている階級がある。土地を持ち、人を住まわせる地主だ。地主は怠惰で仕事をしないから尊敬されるのだと思うかもしれない。けれど、地主が怠惰でいられるのは、不幸にも、他人の労働のおかげだ。この事実から生じた勤労の道徳は、快楽と怠惰を求めた地主の考えがもとになっている。地主は地主以外の人たちが同じよう暮らすことを望まないのだ。

文明が始まってから、人類は一生懸命働き、妻は夫と同じくらいの激務をこなし、子供も働ける年齢になれば働いた。けれども、生活に必要な物のほかに、資産をほとんど持てなかった。わずかに余っても、武士や僧侶が管理したので、飢饉の時は多くの労働者が飢えた。この制度が、ロシアではロシア革命まで続いた。英国では産業革命が起こったのに、工場経営者という新階級が力を得るまで、続いた。米国では、独立後も、南北戦争まで続いた。そのため、人々の考え方から意見にまで、勤労が望ましいという考えが深く刻まれた。しかし、この考えは産業革命前のものだ。今では少数の特権ではなく、社会全体で公平に分配される権利になった。勤労の道徳は奴隷の道徳だが、もう世界に奴隷は必要ない。

未開社会の農民たちは、収穫の余りを手放そうとしなかった。生産を減らすか、消費を増やした。そこで、武士や僧侶は、農民にたくさん生産させ、多く納めさせた。だんだん、農民を道徳で導けるとわかってきた。精一杯働くことが義務だと思わせたのだ。こうして、強制は減り、統制も軽くなった。もし今、GAFAのCEOが、社長は社員より多く収入を得てはいけないといいだせば、労働者は驚くだろう。もともと義務は、権力者が下の者たちを、主人の利益のために働かせる手段だった。権力者は、自分の利益は人類の利益になると信じ、自らにもうまく隠してきた。かつてのアテネの権力者は、暇を使って人類の文明に貢献した。昔の少数の暇人は、多大なる勤労者の上に成り立っていた。けれども、労働の価値は、勤労にはなく、暇にある。現代のテクノロジーを使えば、文明を損わずに暇を公平に分配できそうである。

現代のテクノロジーは、世界中の労働を減らした。戦争の間、有能な人材は、軍隊、軍需品の生産者、スパイ、プロパガンダの宣伝者、政府の役人として抜擢されたが、他の労働者は、戦前戦後と比べても健康状態が良かった。借金すると、未来が現在を養うかのように思えるが、まだ存在しないパンは誰もかじれない。つまり、生産する仕組みを確立すると、世界中の労働を減らしても、世界の人々の生活を楽にできる。このことを戦争は証明した。終戦の際、生産設備を維持し、労働時間を1日4時間に切り下げてしまえたら、みなに都合が良かったはずだ。実際はそうならず、働く人は長時間働き、残りの人は失業し飢えるまで放置された。なぜかといえば、勤労は義務であり、人はアウトプットではなく勤勉さに応じて報酬をもらったからだ。

これは奴隷の道徳である。悲惨な結果である。何人かが安全ピンを製造していた。すると、同じ時間で2倍の数の安全ピンを製造する技術を発明した人が現れた。しかし世の中は安全ピンをそんな2倍も必要としない。安全ピンはすでに安価なので、さらに安くすると1つも売れなくなる。だから、その安全ピン工場では8時間労働をやめ、4時間だけ働くよう切り替えた。他のことは変えなかった。この分別のある方法は、しかし少し怠惰な考えである。それで従業員は、再び8時間労働に戻り、大量の在庫を抱え、破産する企業あり、半分は首になった。工場全体の労働量は4時間計画と同じだ。けれど、半分の人々は働きすぎ、もう半分の人たちは暇を持て余す。こうして得た暇は、幸福を生まず不幸を引き起こす。いかにも気が狂いそうである。

貧乏者に暇を与えると、金持ちはぞっとする。英国の19世紀初頭の平日の労働時間は15時間だった。子供も12時間以上働いた。長すぎると思うかもしれないが、仕事がなければ酒を飲んだくれ、子供はいたずらすると信じられていた。私の幼いころ、都会の労働者が選挙権を得た後に、公休日が法律で定められ、上流階級が怒ったことがあった。ある年配の公爵夫人は「貧乏者に休日は必要ですか、絶対働くべきだわ」と発言した。今でこそそうはっきりと言わないが、同じ考えを持つ人はおり、経済が混乱する原因になっている。

ここからは、仕事の倫理を考えてみたい。人は誰でも、誰かの労働で生産したものを、ある量だけ消費して生活している。仮に、労働が好ましくないものなら、自分が生産したよりも多く消費すべきではない。医者のように商品ではなくサービスを提供する人たちにとっても、衣食住等を得たお返しに何かを提供すべきである。だから、その分だけ、働く義務を認めるべきだ。その分だけ、である。

なお、相続や玉の輿婚により最小限の労働も避ける人たちのことは論じない。過労や貧困を強いられる現実ほどには、社会に害がないと思うからだ。

普通の労働者が、1日4時間だけ働くようにすれば、みなが満足し、失業もなくなる。このアイデアは、裕福な人たちを驚かせる。貧乏者は有り余る暇の使い道を知らない、と思い込んでいるからだ。米国には、暮らし向きが良くても、なお長く働く人は多い。罰として失業の代わりに暇を与えるなら、怒るだろう。自分の子供に暇ができることを嫌い、子供には教養を積むより精一杯働くことを望んでいる。かつての貴族たちは、何の役にも立たない趣味を気取っていたが、今や無用を讃美することは常識にかなわない。

暇をうまく使うには、文明と教育が必要である。今まで長時間働いてきた人は、突然することがなくなるとうんざりするだろう。でも、誰でも相応の暇がなければ、人生の最もすばらしいものと縁が切れる。多くの社会人がこのすばらしいものを奪われている理由は、単に暇がないからだ。今やそれほど長く働かなくていいのに、禁欲主義に突き動かされて働きすぎる人が、今も相変わらずいる。

ソ連の思想を振り返ると、ヨーロッパの伝統と異なる部分も多いが、全く変わらないところもあった。支配者は、労働は神聖である、と正直な貧乏人に対して宣伝してきたが、これは昔から変わっていない。勤勉、節制、長期的利益から生まれる労働意欲、権力への屈服さえ、再び広まっている。宇宙を支配する意思を現す権力、その名をマルキシズムと呼ぶ。

ロシアにおけるプロレタリアの勝利は、ある国におけるフェミニストの勝利と共通している。男性は女性より徳があり、徳は力より望ましいとし、女性には失望しないよう慰めてきた。フェミニストは徳と力の両方を得ると決めた。フェミニストは、徳の望ましさを信じたが、力がつまらないものだとは信じなかった。同じことがロシアで起こった。富める者は、労苦を称える文を書き、ミニマルな暮らしを勧め、貧しいほうが天国に入りやすいとの教えを広めた。物体の位置を移動する労働は、重要で気高いと信じさせた。これは、男性が女性に信じこませようとした状況によく似ている。ロシアではこれらの教えが素直に受け入れられ、筋肉労働者は誰よりも尊敬された。本質的にはイエスの教えなのだが、目的は宣教ではなく、単に筋肉労働者を確保するためだった。青年たちはこの教えを理想であり倫理の基礎であると捉えた。

資源大国は、開発を急がず、借金せずに進めるべきである。過酷な筋肉労働はなくならないが、報酬も大きいままである。このことは、これからもそうであろう。しかし、誰もが長時間働かずに済む時代が来たら、何が起こるだろう。

ヨーロッパでは、経済的公平を考えない。ほとんどの生産物を少数の職人が作り、多くの人々は働かない。政府やシステムが生産量を調整しないので、不用なものが大量に生産される。このように、大部分の人々が働かずに済む仕組みを考える。これがうまく立ち行かなくなれば、戦争する。一部の人に高性能の爆薬を製造させ、他の人々に爆発させる。花火を知ったばかりの子供のようなものだ。こうした工夫によって、筋肉労働こそ普通の人々の運命であると信じこませ続けるのだ。

ソ連では、経済的公平を重視し、政府が生産を調整するので、ヨーロッパとは異なる解決をみた。生活必需品や暮らしを豊かにするものが誰にも充分に供給できると、労働時間は減っていった。その途中で、暇をとるか生産するか、投票や申告する権利を認めておいた。しかし、筋肉労働が最高だと教えこんでいるからか、暇な天国での暮らしを目指したいとは、なぜか考えない。むしろ、今の暇を捧げ、未来を繁栄させるプランを次々に作り出す傾向が強かった。ソ連のあるエンジニアは、カラ海をダムで区切り、シベリア北部を暖かくするよう計画したという。すばらしいアイデア。ダム工事によって筋肉労働者が楽に暮らす時期を遅らせることができるし、工事が始まれば、北極海の氷原から吹雪が止む。筋肉労働は、国民が働かずに済むために必要なことではなく、筋肉労働自体が目的なのだ。

物体を移動させる行為は、生きるためにある程度必要だが、人生の目的にはならない。そうでなければ、どんな工員もシェイクスピアより優れていることになる。私たちが騙されているポイントは2つある。1つは、貧乏人に不満を起こさせないことだ。金持ちが貧乏人に労働の尊厳を説いて数千年、金持ち自身は勤労に尊厳を認めずにきた。もう1つは、機械の発達だ。物体の移動から精密な製造まで、機械制度の器用な発達を楽しむようになった。しかしいずれも、労働者の心を強く捉えない。もし労働者に、人生で最も重要なものは何かとインタビューすると、「筋肉労働さ。使命感を楽しめるし、人間が地上を無限に変化させられると考えると満足できる。休暇も必要だけど、労働に戻る月曜の朝が、いつも最高に幸せだね。」と答えることはない。筋肉労働者も、働くことを生計を立てるためと考え、暇こそが楽しみや幸福を作り出すと考えている。

さて、少しの暇なら心地いいけれど、24時間のうち4時間だけ働くなら、1日をどう埋めるか分からなくなるという人もいる。もし当てはまるなら、原因は現代文明にある。昔はのんびり愉快に遊べたのだが、効率のためだんだんと控えられた。現代人は、何事もそれ自体のためではなく、何か他の目的のために行うべきだと考える。まじめな人は、映画を見る習慣を有害だと捉え、青年が堕落する原因だと批判する。しかし、映画製作の仕事は立派で、多くの観客を動員している。利益をもたらす活動のみが望ましいとの考えこそ、あらゆる物事を台無しにする。肉屋やパン屋が優れている理由は、儲けているからにすぎない。もし買った食べ物を味わうとき、仕事の英気を養うために食べるのではなく、店側の利益について論じて食べるなら、下らない。儲けることは良いことで、費やすことは悪いことだと。しかし、儲けるのも費やすのも取引の両面であると知れば、その考え方は間違いだと分かる。生産した物事の評判は、消費して得た利益から来るに違いない。社会人は利益を求めて働くが、その仕事の意義は消費することにある。このように生産の目的と社会生活の目的が離れているので、利益こそ勤労の動機と考える人にとっては物事が難しくなる。私たちは生産を重んじがちだし、消費を軽んじすぎる。楽しみや純粋な幸せに注意を払わないし、消費の快楽から生産を発想しない。

労働時間を4時間にするべきだとの私の主張は、残りの時間をつまらなく過ごすよう勧めるものではない。生活必需品と生活を快適にするものを得るには、1日4時間労働で充分であり、残りの時間は「自分の時間」にできるという意味である。これを制度として実施するには、教育を一層進ませ、暇を賢明に使える趣味をいくつか与えることを、教育の使命とすることが重要だ。ただ、学識ある人を量産するとの意味はない。

例えば、農民の踊りは、一部の片田舎を除いては失われたが、この踊りを身に付けてみたいという気持ちは、人間本来の衝動として残っているに違いない。都会に住む人の快楽は、映画鑑賞、スポーツ観戦、動画やラジオの視聴など、大体受動的である。都会の人たちのエネルギーが労働に吸い取られているからだ。もし都会の人にもっと暇があるなら、自ら積極的に役割を引き受ける快楽を味わえるはずだ。

昔は、少数の有閑階級と多数の労働者階級があり、有閑階級は社会的に正義とはいえない利益を楽しんだ。そのため、どうしても暴君のような心情になり、同情心が乏しくなり、自分たちの特権を正当化する考えを編み出すことに時間と心を奪われた。こうして、有閑階級の美点は失われた。しかし、こうした引け目はあるが、有閑階級は文明のほとんどを与えてくれた。芸術、科学、書物、哲学、社交。多くの解放運動も、上流階級から始まった。だから、有閑階級なしでは、人類は野蛮であり続けたはずだ。

しかし、彼ら有閑階級の行為には、義務感がなかったし、無駄が多かった。働くよう教わらずに育ち、階級全体で見れば知的とはいえない人々も多くいた。

彼らの方法は、ひとりのダーウィンを生む可能性はある。けれど、このダーウィンひとりに対し、狐狩だとか密猟者への処罰だとかを日頃考え、知的なことを考えたことがない紳士が何万人といる。現代は、大学や研究所が、組織的に進めるようになり、大変な進歩だと思うが、欠点もある。大学での生活は一般の暮らしと異なっていて、世間の人々が持つ偏見や社会問題に気づかないことが多い。また、アカデミックな成果や意見を公表しても、大衆へ充分に伝えられないことが普通だ。独創的な研究が、組織の中で揉まれ、鋭さを欠く傾向もある。世の中では、実利的な研究に忙しくしている。アカデミックな環境は有用だが、文明の利益を守る仕組みとして有効とは限らない。

誰も1日4時間以上の労働を強いられなくなれば、好奇心の持ち主なら思うままに活動できるし、画家なら食い扶持を心配せずに優れた絵画を描ける。若い作家なら、不朽の傑作を書くための経済的準備として、ベストセラーを狙った作品で名前を売ろうとしなくて済む。こんな作品ばかり書いていては、大切な機会が来ても、傑作を好む気持ちも傑作を書く能力もなくしてしまっているだろう。また、自分の職場で政治や経済の面に関心がある人なら、アカデミックな態度を取らずに、自分たちの思想を発展させることもできる。アカデミックな経済学者の論文のように、実際の根拠がないように思われることを避けられるだろう。医者なら、進歩する医学を学ぶ時間ができるだろうし、教師なら、昔学んだ古い知識をアップデートし、教える際に苛立ったり焦ったりすることが減るだろう。

何よりもありがたいことに、ストレス、疲労、消化不良の代わりに、人生の幸福や喜びが生まれる。4時間の労働は、暇を喜びに変えるにはちょうどいい。疲労を生み出すにはもっと働かねばならない。余暇ができたら、疲れていないので、消極的でつまらない享楽だけを求めることがなくなる。人口の1%の人たちは、公共的意義のある研究を進めるだろう。生活を研究に頼らないので、独創性は妨げられないし、学会の基準に配慮する必要もない。それ以外の普通の人にとっては、今までよりもっと親切になり、人を苦しめることも減り、疑いの目で人を見ることも少なくなる。戦争したいとの考えは、いずれなくなってしまう。戦争はすべての人たちに長い過酷な労働を強いるからだ。気立ての良さは、最も人々に望まれる性格だが、苦しい生活の賜物とは限らない。生産や流通のテクノロジーは、現代の私たちに安全で快適な暮らしを楽しむ可能性を与えてきた。特定の人たちに過労と飢餓を与える必要は、もうなくなったはずだ。今後新たなテクノロジーが生まれても、以前と同じように根が尽きるまで働き詰めるなら、これからもずっとそのように愚かであり続ける理由はないのである。

(翻訳 24 May 2020)